藤島 大さんのこと


2025年7月26日

今、藤島 大さんの10年ぶりのエッセイ集「下着は自分で。」を読んでいる。

藤島さんはSNSを一切やらない。その理由を考えることで、改めて藤島さんのことを理解できると同時に、自分のSNSとの向き合い方を鑑みれる気がして少し考えてみた。



1. 言葉の重みと責任を大切にしているから

藤島さんの文章は、精緻で抒情的、かつ論理性が高い。つまりSNSのような即時性・断片的な言葉のやりとりは、彼の「言葉は慎重に扱うべきもの」という信条と相容れない可能性があるからか。SNSは軽率な言葉が炎上や誤解を生みやすい。藤島さんの文章には「言葉で人を導く責任」が感じられる。よって、発信の場としてSNSはふさわしくないと考えている可能性。

2. 「距離」の哲学を持っているから

藤島さんは、記者と選手、あるいは読み手との「距離感」を非常に大切にしているタイプの書き手だ。SNSはその距離を容易に縮めてしまうため、ジャーナリストとしての中立性・観察者的視点が揺らぐと感じている可能性があるからか。選手とSNSで近くなりすぎると、公正な視点で記事が書けなくなる。読者と即時的に交流することで、迎合的になるリスクがある。

3. SNSの「ノイズ」を避けたいという美学

藤島大さんの書く文章は、どこか「静けさ」や「余白」を感じさせる。SNSはその正反対にある、情報過多で騒がしい世界。そうした環境を避けることで、自分の思考を守っているとも考えられる。多数の意見に晒されると、書き手としての芯が揺らぐ。「雑音」を遮断し、純粋に対象(スポーツ・人間・思想)と向き合いたいのでは。

4. 「個」の発信より「作品」で語る主義

藤島さんは、自分自身の意見を声高に主張するのではなく、取材を通じた対象(選手や競技)の語りを通してメッセージを伝えるタイプ。SNSでは「自分が何を思うか」の主張が中心になる傾向があり、藤島さんのスタイルと相いれまない。「語る」のではなく「書く」ことに価値を置く。SNSは往々にして自己顕示的になりやすく、作品主義と矛盾する。

5. 「発信すべきではないもの」を知っているから

長年メディアの第一線で取材・編集・発信を続けてきた藤島さんは、「何を出すべきか」「出すべきでないか」の線引きを熟知している。SNSはしばしばその線を曖昧にしがちであり、その危うさを肌で理解している可能性がある。



藤島さんがSNSを一切やらないのは、「文章と言葉」に対する強い信念と美学、そしてジャーナリストとしての立ち位置・矜持によるものだろう。一見時代に逆行しているようにも見えるが、それこそが藤島さんらしい「抗い方」であり、「語るべきはSNSではなく、誌面・講演・現場である」という姿勢の表れだと考えられる。

自分で勝手に考えて、勝手に腑に落ちた。